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色弱とお札の色 ユニバーサルデザイン 

ユニバーサルデザイン、wikipdiaによれば『文化・言語・国籍の違い、老若男女といった差異、障害・能力の如何を問わずに利用することができる施設・製品・情報の設計(デザイン)をいう』とある。

そんな中、色弱の方がお札が見分けられないというのを見かけた。
千円札と五千円札の色の見分けがつかないというもの。札入れから千円を出す時にペラペラっと青っぽい千円札を抜いて渡すことが多いと思う。これが赤緑色覚異常の方だと同じ色に見えてしまい、抜いたら五千円札だったということがあるそうだ。

この赤緑色覚異常は、日本人男性の22人に1人、女性では600人に1人の割合でいる。クラスの男子ひとりくらいはいる計算か。

ではどのようにみえるのか、シミュレーションサイトで変換してみた。
20130219_02.jpg
画像:日本銀行(クリックすると少し大きくなります)

左はオリジナル画像。右が2型色覚のシミュレーション。

赤緑色覚異常は、赤に反応する細胞または緑に反応する細胞が機能不全の状態だ。なので赤または緑の色合いが抜けて全体的に黄色っぽい感じになるようだ(3色見える人も多分、人により見え方が違う)。

ユニバーサルデザインでは、色弱の方であっても見分けがつくようなデザインが求められる。地図の色が区別できないと間違ってしまったり、注意書きが緑の地に赤で書いてあると赤緑色覚異常の方が見づらいか見えない。

それなのでシミュレーションすることで事前にある程度、見分けがつくようにデザインを確認することが求められる場面がある。

一部の有料ソフトはこの色覚シミュレートができるものがあるらしい。
ネット上でもシミュレートサイトがある。上図はそのサイトを利用したもの。

Web上で色盲の見え方のシミュレーションをする(Vischeck)
http://teleradiology.jp/MRI/04_tips/Vischeck/index.html

上のリンクはVischeckというシミュレートサイトを紹介した日本語説明サイト。


下のリンクが本家。

Vischeck
http://www.vischeck.com/vischeck/vischeckImage.php

勘違いしてほしくないのはシミュレータの結果がすべての色弱の方の状態ではないこと。色合いは人それぞれ。健常者も比較はできないが色合いが違って見えていると思われる。

健常者がシミュレータによって見分けがつかないとしても、生まれつき色弱の世界にいる方たちは濃淡などで見分けをつけていることも多い(ある意味の慣れ)。ユニバーサルデザインではそういうところも考慮するのかもしれない。

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目は口ほどに… 

動物(犬とか)の目に感情が表れるようにみえるので、目と感情について検索したらwikipedia“顔文字”がヒット。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E6%96%87%E5%AD%97

ここで日本とアメリカの顔文字の違いに「なるほど」と思ったのだ。
もちろん顔文字に違いがあることは以前から知っていたが、日本は目で、アメリカは口で感情表現をするというのは新たな発見だった。

笑顔(例)
日本→ (^_^)
アメリカ→ :)

悲しみ(例)
日本→ (;_;)
アメリカ→ :( 

アメリカの顔文字は横に寝ているので注意。

北大の結城雅樹准教授らの研究で日米の表情表出と知覚のルールに違いがある可能性が指摘されたそうだ。すると日本人とアメリカ人とでは感情の知覚が正常にできないことになる。

とはいえ、実際の人間同士であればもっと総合的に判断するとは思うが、それでも何を重視するかということはいえるだろう。

ちなみに動物(哺乳類)に感情があるように見えるのは、情動行動を見た人間の解釈ともいえるのか、なかなかにむずかしい。死んだ主人のそばにたたずんでいるのも「いつまで寝ているんだよ」と死を理解できていないだけ、主人に事を想っているというにはそれをみた人間の解釈という考えもありまして。むずかしいですね。


uchidayu.net:目で読み感情、口で読む感情


“私”の位置 幽体離脱 

“幽体離脱”と書いておきながら、“体外離脱体験”と言い直します。
“幽体離脱”は神秘主義的な響きでしょ。科学の対象として“体外離脱”と区別するらしいので。

“単純な脳、複雑な「私」”に述べられていることを箇条書きにしてみる。

1)脳の角回に刺激を与えるとゾワゾワ感を感じ、背後に他者の存在を感じる。
2)脳の頭頂葉を刺激すると、身体だけが後方にワープするように感じる。
3)右脳の角回を刺激すると、自分が2メートルほど浮かび上がり、天井からベッドに寝ている自分を部分的に見える。

これを著者の池谷氏は、自分を外から客観視する脳の機能によるものではないかと考えているようだ。

100124a.jpg

角回という場所は、暗喩を理解する部分でもあるらしい。たとえば「空の綿アメ」といって“雲”を連想することができると思うが、角回に何らなの障害のある人は、そのまま“空”の“綿アメ”を思い浮かべるらしいのだ。つまり言葉の裏に隠れている意味を類推することができないということだろう。

そんな角回に刺激を与えて、なぜ背後に自分の身体を感じるのだろうか。
ちょっとその前に、なぜ自分の身体だと思えたのかだ。
実験を通して背後に他者を感じたが、実験を進めるうちに意識の“私”と同じことをしていることがわかってきた。つまり“私”が右腕をあげると背後の他者も右腕を上げる、というように。
この現象と暗喩を類推する機能とがどう関係があるのかわからない。

池谷氏の“自分を外から客観視する機能”を手がかりに体外離脱体験を考えてみる。

角回など脳の一部の機能として、自分を客観視する機能があるらしい。他人からどう思われているか、とかを気にするのは、この機能によるものだと思われる。これが極端に強くなると“他人からどう見えるか”がまさに“私”の立場で眺める(想像する)ことになるのではないかと思えるのだ。

何かを真剣に考えていると、そのイメージの中で“私”が何かを体験している感覚があると思うんだけれど、それに似ているんだと思うんだ。正常な状態であれば、自分の身体というか現実に引き戻される。外からみると物思いにふけっている感じ?

精神病、解離とか離人症なんかも、このあたりの障害ではないかと思うんだ。
脳の機能障害で角回の刺激と同じように背後に他者を感じてしまう。振り向いても誰もいない。これって恐いよね。
そこで“私”は合理的に理解することができないために、背後霊などで理解するのだと思う。天井から見ているっていうのも実際の映像ではなく、イメージだと思うけれど。

とても恐い体験をしている時、脳の保護機能としての体外離脱っていうのもあると思うんだよね。
何かにはさまれて身動きができない。とても苦しい。そんな自分を見ている“私”とか。

“私”は脳の機能を知らないけど、“私”が体験する不思議な現象に対して何らかの解釈をしなければならない。だって恐いじゃない。そこで霊とか神を創造してしまったのだろう。

“心”と“私”の発見直後は、こういう自他の概念に混乱があったのではないだろうか。むむむむ。

自転車と脳 

前にこんなたとえを読んだ。

自転車がどういうものか。タイやが2ヶあり、ハンドル、サドル、ペダルなどがフレームに付属し、人力でペダルからチェーンを伝わってタイヤへと動力を伝え走るモノとすれば、電動アシスト付きのものは自転車ではないのか、ましてやカゴの有無で自転車の定義が変わるのか。

そして自転車とはどんなに分解しても、“自転車”というものは見つからず、あくまでハンドル、サドル、ペダル、タイヤなどの各パーツしかみつからない。自転車とは何か、それは“機能”である。という話だ。

つまり“脳”を調べることで“私”とは何かを発見しようとして、脳をどんなに刻んでも、部位とか、神経細胞とか、タンパク質とかくらいしかみつからず、“私”がみつかってこちらに微笑みかけるということはないはずだ。自転車の例で考えれば“私”とは神経細胞の塊である“脳”の“機能”であることになろう。

すると自転車がどのようなものか自ら乗りこなしてわかるのと同じように、“私(意識)”も脳の活動を観察することで理解が進むことになる。そして実際いろいろと研究が進んでいる。

さなぎ(追記版) 

2年ほど前にも書いたが、イモムシから蝶(蛾でもよい)になる間のさなぎというのはどういうものか、考えてみた。

ちなみに先にブログで紹介した数年前に見たサイトを再発見した。
子どもの蚕の研究所
あまりのすばらしさに読んだ当時メールをした。この時は中学生だったかな。
改めて見るとさなぎの中に卵があったりして、なかなか興味深い。

ところでさなぎになる時に成虫に近い姿になる。これが鋳型となるわけだ。そしてイモムシの身体はドロドロに溶けてしまう。ほぼすべての器官が溶けてしまうとどこにでも書かれているのだが、どうも生殖器はあるらしい。もっとも成虫の役割は生殖ですからね。

さて、一部の神経組織を除きドロドロとなり身体を再構成するのですが、その不思議さはどこの細胞が何になるのか記録されているということでないと、成虫になるしくみが理解できないです。

またもし意識というのがあったと仮定すると、幼虫と成虫とでは全く別の生き物だと認識されるんじゃないだろうか。脳も溶けているので記憶もなくなる。つまりは卵からふ化するときと、さなぎから羽化するときの2回誕生があって、お互いが同じ自分生物だと思ってもみないのではなかろうかと。


2009-8-2
書き忘れたが、注射器をさなぎに挿して少し吸い出したらどうなるのだろう…
どこぞの実験では、さなぎになるのは血中にホルモンをだし、身体じゅうがさなぎに変化する状態になるのだが、一部を結んでホルモンがいきわたらないようにした、というのがあったな。
この場合はホルモンがいきわたったところが、さなぎ。いきわたらなかった部分は、幼虫のままだったそうだ。この方法でホルモンが分泌される部位をさがしたとのことであったが、はて、情報源はどこだったろう。

光の二重性 

EMANの物理学:光の粒子説でなるほどなぁ、と関心し、かつ楽になった“光の二重性”について。

「光は、粒子であり、波である」が「光は、粒子ではなく、波でもない」との考え方。

つまりは
光は、粒子でなく、波でもない、別の何か。
という発想か。

「別の何か」ならしょうがないなぁ、と、いい意味で思考停止ができた。

位置エネルギーの公式の意味 

運動エネルギーの公式
Ek=(1/2)mv2
については“運動エネルギーの公式の意味 その2”で考察した。

では位置エネルギーの
U=mgh
はどうなのだろう?だって、位置エネルギーと運動エネルギーには次の関係がある。

E=(1/2)mv2+mgh

むむむぅ。片や2で割ったり、二乗したりしているのに、位置エネルギー側はすべて掛け合わせているだけではないか。

ひとつひとつ分解してみる。
位置エネルギーと運動エネルギーで共通しているのは質量mだ。これはのけておこう。
すると運動エネルギーの速さと、位置エネルギーの高さと加速度の関係がわかればいいということかな。

位置エネルギーの加速度gは、重力加速度であるが単に加速度とすれば“a”でもいい。
高さとは距離と考えて差支えなかろう。つまり…

位置エネルギー=質量x加速度x距離(高さ)
ということになる。

ここで“運動エネルギーの公式の意味 その2”を読み返すと、運動エネルギーの公式の意味としては…

運動エネルギー=質量x加速度x停止するまでの移動距離
が導き出されていた。何か似ているではないか。運動エネルギーでは“停止するまでの移動距離”だが、位置エネルギーでは“距離(高さ)”に違いだ。

運動エネルギーの停止するまでの移動距離は、等加速度で徐々に停止させるような力を加えて完全に止まるまでの距離のことであった。

位置エネルギーの場合はどうか。ここに暗黙の了解事項がある。これは位置エネルギーは自由落下で落ちる距離を示しているわけだ。つまり徐々に加速される。自由落下だから重力加速度による等加速度による落下だ。つまり運動エネルギーの距離と逆の考え方だが、内容は同じなのだ。距離は等速度の場合の2分の1になる。

“距離(高さ)”とは、徐々に加速された場合の移動距離のことだ。

つまり
位置エネルギー=質量x加速度x距離(高さ)
          =質量x加速度x{(1/2)x(加速度x時間2)}
ということだ。
距離を計算するには、速さと時間を掛ければよい。
速さを計算するには、加速度に時間を掛ければよい。

位置エネルギーの加速度は重力加速度なので“g”の記号を特別に使っている。

これで位置エネルギーと運動エネルギーが保存されたし、違うエネルギーとの間でも変換できそうである。

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