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意識と<私> 

ずーっと悶々と考えてきた<私>について、少し悟りが開けそうだ。

蔵書の“脳はなぜ「心」を作ったのか ”を読んだ時点では納得しがいたいものがあったが、いろいろと調べると少なく不十分な実験数だが脳科学の不可解な実験結果から意識についての一定の仮説がわかった。

匝が理解した意識とは…
1)エピソード記憶のためにある
2)“注意”(フィードバック機能)を向けるためにある
3)シミュレーション(思考)のためにある
4)(なんだっけか)

エピソード記憶のため、五感と感情を統合し空間的・時間的な出来事を印象的にまるごと記憶できるよう意識があるのだと思う。音楽などあることをきっかけにその時のことを感情も含めて思い出せるのも記録ではエピソード記憶が、再生ではシミュレーション機能が働いているんじゃないかな。

注意は、何か作業をする時に自転車を乗るとき無意識に乗れるが、最初は身体(手続き記憶)が覚えていないので、意識的に注意を向けて覚えていくでしょ。クレーンの操縦とか注意しながら行動を調整する(フィードバック)機能が意識の“注意”ではないかな。

意識は脳の発達と共に役割を大きくしていくのだと思う。
子どもの頃は脳が発達中であるので意識もまだまだ動物的(?)なのかも知れない。そして中学生の年頃になると、意識の注意が自己に向けられて<私>を発見してしまう。のではないか。

そして戸惑っちゃうわけだ。無邪気に遊んでいたのだが、ある時、自身の内面に<私>がいた。自身の中の鏡に映った自分の姿に驚いちゃう。そして思春期でもあるので身体も変化しちゃってびっくりってことだったのだろう。

古代人も脳の発達によってある時期に<私>を発見してしまった。恐怖したかもしれない。これを理解するために“神”を創造してしまったのだろう。そして心の安寧を得ようとしたのかも知れない。

つまり意識の“注意”が意識の<私>を発見し、<私>が<私>を無限ループで考えている(シミュレート)状態が今の匝のような気がする。

意識は無意識に先行せず、無意識に行動を開始し、その情報が意識の俎上にあがるというのが実際のところにようだ。つまり<私>が思いついて行動をしているのではなく、無意識が行動を開始ししているのに、あたかも<私>が行動を開始したかのように錯覚している。多くの意見はこのような理解のようだ。最初、匝は納得できなかったが、そのへんは悟ってきたのか今ではそうかもしれないなと考えている。

すると<私>は脳のひとつの機能であって、決して魂とかいうものではないのだろう。
無意識の奴隷ですらあるわけだ。進化の過程で誤算があったとすれば、意識が<私>を発見することだったのか、それともこれは既定された進化だったのか、それはわからない。

既定といえば、ある程度の行動は過去の(帰納的)記憶によって決められると考えられそうだ。それも行動は(意識的にやっていると感じていても)無意識に行われる。すると過去の行動が未来を決めるという決定論的な結論になりそうだが、そうでもないらしい。

ある部分の脳細胞の電位が高いか低いかで行動が分かれる場合もあるそうだ。たとえば状態の度にその電位が少しずつ上昇し、5回同じことが起こると電位の閾値を超えて違う行動をするとか、あるらしい。このことで決定論というより不確定的な面をだしているのだろう。

あとクオリアは感情と共にエピソード記憶のための機能ではなかろうかと思う。こう考えるとクオリアで悩むこともない気もする。

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