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マッチ売りの少女(追記版) 

モノやお金に恵まれていたとしても、心の中の<私>がマッチ売りの少女と同じような人が多いんじゃないかと感じている今日この頃。



結城浩サイト:マッチ売りの少女
http://www.hyuki.com/trans/match.html


2009-3-15 追記
改めてよく考えるといろいろと思いなおすことがあった。

“マッチ売りの少女”は、作者の考えとその基礎にあるキリスト教の影響を多分に受けていると思われる。それはキリスト教を理解していない匝にはわからないことでもあるので、その他のことに注目してみる。

1)ひどいお父さんはいるが、お母さんについては不明
2)毎日つらい日を繰り返しているが、逃げだそうとせず、その境遇を受け入れている
3)幻想で、おばあさんが現れる
4)売上がなくお父さんに暴力を振るわれるし、家も外も寒さは同じ
5)売上がなく帰れないのに、商品のマッチを使う(怒られるだろうに)

作中におばあさんのことが「少女を愛したことのあるたった一人の人」とあり、お母さんからも愛されたことがないことが暗示される。

マッチの火はささやかな欲望(願い)であったと思う。
1本目は、寒さから救われたい思い。
2本目は、空腹から救われたい思い。
そして3本目は、人から愛されたいという思い。

少女は逃げだそうとしていないところから、その短い人生に絶望を抱いていたわけではなさそうだ。もっとも貧しいさから逃れるために自殺するというのは意外と少ないようである。現代でも発展途上国の子供たちが、我々の目(価値観)からみれば哀れに見えても自殺してしまう子供はいない(少ない?)。

アンデルセンの時代は階級制度があったし、貧乏が当たり前の時代。誰もが自分のことで精一杯であったろう。その中にあって、家族愛もなかった少女は孤独だったに違いない。そして世間の他人に対して無関心。

総合すると、少女は孤独と世間の無関心から死んだといえるのではなかろうか。

そしてそこから解放してくれたのが、“神”であったというのがキリスト教的な救いなのかも知れない。
神にしか救いが求められないほどの孤独であったということなのだろう。少女は微笑みながら死んでいましたからね。そして魂が解放され救われたことは、世間の人にはわからないし、どうでもいいことなのだろう。

世間だって「かわいそう」と手を差し伸べられるのは限られている。多くは、人知れず死んでいくのだろう。

現代の日本でいえば、老人(だけではないだろうが)の孤独死が少女の境遇に近いかもしれない。
孤独と世間とのつながりの希薄。無関心。

自殺が近いかと考えたのだが、近いとは思うが、自己を破壊するエネルギーの有無に違いがあるのではなかろうか。自殺は悩みやストレス、そこから逃げだしたいという思いが強いように感じる。
ロウソクでいえば、吹き消すイメージだろうか。

孤独死は、ロウソクがなくなってジリジリと火が消えていく感じだ。人間は一人では生きていけない。お金と同じで元気も天下の回りものなんだよ、きっと。元気をあげて、元気をもらうんだ。食べ物と同じで元気をもらえなければ、だんだんと精力がなくなってしまうことだろう。

大久保ゆう訳:マッチ売りの少女
http://www.alz.jp/221b/aozora/the_little_match_seller.html

大久保ゆう訳では、流れ星が流れて「だれかが死ぬんだ……」と少女が思ったと訳されている。結城訳では「いま、誰かが亡くなったんだわ!」とされているが、どちらも少女のことではないかと匝は考えた。“誰か”とは少女自身のことであり、それに少女は気づいていないのだ。
アニメでも最後に雲の間から流れ星が流れます。

そうそう、クリスマスは“フランダースの犬”もそうだが、神さまによる救いの日なんですかね。

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