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関東大震災ちょっといい話(追記版) 

関東大震災の話をする時、どうしてもその被害の大きさ、特に火災による死者の数(その半数近くは被服廠跡での火災による死者)と、デマによる朝鮮人への民衆暴動が語られ、非常に暗い話ばかりでちっともいい話がない。

と、いうこともなかったのだ。実は下町を総なめした大火災でもまったく燃えなかった地区がある。
その場所は神田佐久間町と神田和泉町だ。ここには“町内協力防火守護之地”という碑が建てられている(数年前に見に行ったものの見つけることはできなかった)。その名の通り、町内の人たちが逃げることなく炎に立ち向かい町を守った記念碑である。

神田佐久間町界隈は、大きな地震でも建物の被害はあまりなく少なくとも倒壊したような話はなかった。

七輪で調理をするような大正時代。昼時に発生した関東地震は、調理中の七輪など火のついたものをひっくり返し、紙と木でできた家屋に対して同時多発的に火災を発生させる。神田佐久間町の南を流れる神田川の対岸の神田岩本町界隈でも火災が発生。

対岸からは火の粉がバンバンと神田佐久間町の家々にも降りかかる。この時、町内の人たちは対岸で燃え盛る火災に怯むことなく、降りかかる火の粉を払い、バケツリレーで消火活動を行った。木造二階建ての佐久間小学校の屋根に飛び火した時、多くの人が一瞬諦めたところ、一部の勇敢な人たちにより屋根裏へのバケツリレーやあげくには豆腐を投げつけるなどの消火活動により鎮火。このことは多くの人々に自信と勇気を与えることとなったらしい。

地震発生から夕方までの消火活動のあと、夜の8時頃には西の秋葉原駅方面から火の手がやってくる。この火災を町の境で食い止めるべく果敢なる消火活動(主にバケツリレー)により深夜までかかって延焼を防いだ。

翌2日の朝。今度は蔵前方面から火の手が迫る。まだ燃えていない東側から神田佐久間町と神田和泉町を目指す炎、そして炎を迎える住民たち。佐久間町の人たちも加わって神田和泉町を守る住民。しかし火災の勢いは強く、印刷所や劇場をはじめ次々と火の手が上がる。

既に水道は断水。豆腐屋、魚屋、八百屋の井戸水をくみ上げてはバケツリレーするも間に合わなくなってきた。そんな時、ひとりのおっちゃんがポンプ屋さんにガソリンポンプがあるのを思い出す。東京市の下水ポンプ場の水を引き、町内各所にてポンプによる消火活動を開始。佐久間町東側からの延焼をどうにか食い止めるが一息つく間もなく、午後2時には下谷からの炎が燃え残っていた神田和泉町北側へ向かってきた。疲労困憊ではあったろうが、ポンプの使い方も慣れ、これを迎え撃ち住民残りの力を出し尽くす総力戦の末、翌9月3日の朝日を自分たちの家と共に拝むことができた(はずだ)。

自分たちの家、町内の回りは見渡す限りの焼け野原であった。
というようなお話だ。

火災焼失地域は“なゐふる”74号のP7にある。これをみると焼け残った
町内を確認できるが、焼失の範囲はもっと広い。

ちなみに上述のお話は、司馬遼太郎の“本所深川散歩・神田界隈”(朝日文庫)や“伝えたいふるさと100話”の27にあるので興味あればご一読を。

阪神大震災の体験集をどこぞのサイトでみたのだが(見つからないが、どこかに記録しているはず)、近所づきあいは大切である。救助活動の中、近所から嫌われると救助が後回しにされてしまう恐れがあるらしいことが書いてあったな。ちょっと驚きだったが、ない話ではなさそうである。ま、出典が示せないので、あくまで可能性としておいてほしいが、いずれにせよ、上述の消火活動の話も含め、ご近所と力を合わせることは忘れないようにしたい。

またデマに惑わされぬよう、冷静な判断力と情報収集をしたいものである。


2009-8-26
念のため追記するが、神田佐久間町と神田和泉町は初期消火の成功と多数の住民と広い安全地帯が残ったために成功した側面もあり、浅草や本所方面のような火災旋風が吹き荒れるような状況では早く逃げたほうが間違いがない。初期消火ができるかどうかにかかっているのかもしれない。

来る南関東地震では関東大震災並みの火災はないと考えていたのだが、先日の防災科研の加振実験で1970年代以前の建物が倒壊するのをみると、下町地区で家屋倒壊と火災の発生が避けられないような気がしてきた。
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