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大津波のお話 

海洋を震源とする地震では、時に大きな津波が発生して沿岸の港や町、さらには河川を遡上し平野部にまで被害を与えることがある。

日本でもまだ記憶に残るところでは北海道南西沖地震で発生した大津波。これは北海道の離島である奥尻島を襲い、青苗地区を壊滅状態にしてしまった。この地震は夜22時17分に発生し、離島であるがために被害状況が映像で送られてきたのは翌朝であるが、地区の大半が津波で流出し、残されたところでは火災で焼失しており、一晩ですべてがなくなっていた

最近発生して世界の多くの人の印象に残っているのは、スマトラ島沖地震による大津波だろう。ザバーンという大波の後は海があふれるかのような海面上昇によって水が町を襲い、引き波では洗いざらいすべてのものを沖へと引き込んでいった映像が世界を駆け巡った。

津波とはとにかく普通の波とは違う。そして情報を収集せずにただちに避難することが生死をわける。

気象庁のサイトには“稲むらの火”というページがある。ちょっと気象庁の雰囲気とは違うのだが、これは戦前までに教科書に載っていた津波にまつわる話である。

詳しくは、稲むらの日webサイトをご覧いただきたい。もともとは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が実話を元に日本の神の概念を紹介することも意図して書いたものらしい。それを日本語に訳したもの、さらに小学生向けに再構成されたものと3つある。事実よりも文学性に重きを置かれたため、事実とは異なることを承知で尋常小学校読本に収録されたとのこと。

この話はスマトラ島沖地震での大津波に関する国際会議でも話題になったようだが、時の小泉首相はご存じなかったのはしょうがないこと。もっとも知っていたらちょっと日本の印象が違ったかと思うと残念である。

お話は上述のサイトをご覧いただき、実際はどんないきさつだったのか簡単に書いてみよう。

舞台は江戸時代の和歌山の広村。現在の和歌山市から南に20kmの広川町である。
1854年(安政元年)12月23日朝、現在の静岡県をM8.4の地震、安政東海地震の激震が襲う。この地震の揺れは遠く離れた広村にも伝わった。津波を心配した村人は神社へ避難するが、特に被害もなく安心して帰宅する。

翌日24日の昼に一部の村人が井戸が枯れる異変に気づく(ただし湯浅地区では異変はなかった)。この時、ヤマサ醤油の経営者であった濱口梧陵が故郷である広村に帰郷中であった。
その日の夕方に激震が広村、いや近畿から四国を襲う。東海地震から連動した安政南海地震M8.4である。この地震で多くの家屋が倒壊。すぐにドーン、ドーンという音と共に津波が広村を襲った。
海岸の大木は打ち抜かれ舟と共に波に翻弄されながら集落へ投げ出され、覆いかぶさる白波は家屋や蔵を打ち砕く。

梧陵も高台に逃げながらも津波に巻き込まれるが、どうにか丘にたどりつき、村人の避難誘導を始める。

時期は冬でもあり、まわりは暗くなってきた。逃げ惑う村人の叫び声、親や子を名を叫ぶ声、そして津波の轟音だけが暗闇に響く。梧陵は干してあった藁(稲むら)に火をつけ、避難のための灯りにすることを思いつき、次々に火をつける。その火は海岸近くから丘の上へと続く。

海岸から逃げてきた村人の顔を照らしだす稲むらの火。そして安全な丘の上へと続く誘導の灯り。
その後やってきた最大の津波により海岸から順番に火は津波に飲みこまれ消えていった。

その後梧陵は、すべてを失った村人のために資材を投げうって復興を誓う。ただ単に援助するだけでは村が荒廃すると考えた梧陵は、どんな津波がきても大丈夫な立派な堤防を作り、その工事のために村人を雇うことにした。食べるものもなくなったため、当座の食料はヤマサ醤油の本拠地である銚子から運ぶため、銚子の店で働く人々に協力を求めたそうだ。

村人は、生活の復興のため田畑や漁の準備をはじめ、生活の糧と資金のために堤防造りをはじめた。そして4年の歳月を経て海岸から松林も含め幅約40メートルの堤防が完成する。

この広村堤防は、1946年に発生した昭和南海地震による大津波でその力を発揮した。堤防自体は十分に機能し町の多くを守ったが、町が大きくなったせいか650メートルの堤防の脇から津波が侵入を許してしまったが、それは堤防のせいではないと思う。

梧陵は、安政の大津波の翌年に村人から“濱口大明神”として祀りあげる計画をやめさせている。そして不幸にも安政江戸地震により江戸の店が被災する。

1896年(明治26年)に明治三陸大津波の報道で知った“稲むらの火”の伝承を小泉八雲が知り、これを元に“A LIVING GOD”を執筆した。1903年(明治36年)に梧陵の息子が英国留学中に参加した講演会にて“A LIVING GOD”のモデルである梧陵の子だとわかり喝采を受けたそうで、それだけにこの話は英国では有名だったようだ。

国語読本の方では、津波襲来に気づかない村人を急いで避難させるために収穫したばかりの稲むらに火を放ち、慌てて消火にきた村人を津波から救ったことになっている。津波では情報収集などせずにまっしぐらに逃げよという教訓である。この話は各国語版となって東南アジア諸国で出版されたようだ。

津波で逃げ遅れる例としては、なぜか海を見にいく行為である。特に引き波(海がどんどん引いて港が干上がるなど)の場合、その様子を見に行ってしまう例が多い。さらにはピチピチ跳ねる魚まで取っている間に津波に飲まれることが多いのだ。好奇心がそうするのだろうな。ちなみに津波には押し波もあるので海の状態に関わらず地震を感じたら避難するのが間違いない。

奥尻島では日本海中部地震の津波の例もあり、迅速に避難したかに思えたが多くの人が車を出したため渋滞し、車ごと津波に飲まれる例があった。むしろ走って高台に逃げた人は助かっている。wikipediaによれば、津波襲来を予見して定期フェリーの船長が緊急退避に成功している。通常の出航ではなく舫い綱を鉈で切断し出航後に防波堤付近で津波第一波に遭遇。これをどうにかやり過ごして沖へ避難したとのこと。

津波の“津”は“港”のことである。港を襲う波という意味なのだ。これは沖で普通に漁をしてから港に戻ると港は津波で壊滅していた、という事象を言い表す言葉である。よって港の船は、急いで沖に避難することが多い。

ところで、梧陵の偉業とするところは、復興と防災を同時に行い、そのために私財を投じたことだろう。ま、私財を投じたことは置いておくとして、もっとも注目すべきは生活の復興だ。

中越地震やたびたび発生する水害を思い出してほしい。多くの人が阪神大震災よりも小さい災害と感じているかも知れないが、被災者としては絶望に近いと思われる。そして心の問題だけではなく、生活の問題も重要だ。当面、住む所と食べるものなどは支給されたりするが、生活の復興のための仕事などはないのだ。特に町工場や商店、農家など地場に根付く人々は、やはり最後には仕事がないとやっていけないと思うのだ。

国や県などの復興計画では、地場の会社などをもっと使った復興計画を立ててほしい。

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